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THE KING AND I (王様と私) |
解説&ストーリー
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歴史的背景について ロジャース&ハマースタインのミュージカル『王様と私』ならびに映画化は、元をたどればアンナ・レオノウエンスの書いた2冊の本が元になっている。シャムと呼ばれていた現在のタイは、東南アジアのマレー半島付け根に位置し、面積は約50万平方マイルを占め、人口の約1割がタイ湾のすぐ北にある首都のバンコクに住んでいる。タイ文化の始まりは中国の南部地方の住人が南に移住し、モン民族の人々と混血することで始まり、民族構成は13世紀半ばにはほぼ定まった。 中国から入った仏教と、移住のあいだに経由したクメールから受け入れたヒンズー教がシャム人の宗教になり、1350年、シャム人たちはメナム川のはとりに首都のアユタヤを建設した。ここはインド=中国間の交易の要衝であり、また農業に向いた肥沃な土地にも恵まれ、シャム人の王は"命の主"と呼ばれ、最初は首都だけを支配し、その権力はタイ全土には及んでいなかったが、最初の王はラーマ・カマエン、通称ラーマ大王といった。 西洋諸国との接触は15世紀に始まり、この頃には隣国ビルマとの、その後300年にわたる戦争も始まっていたが、発端はシャムの王がビルマ王の白い象を送って欲しいという要請を拒絶したことであった。 ![]() 1516年、ポルトガル人にアユタヤでの交易を認める条約が締結され、この時代首都の人口は100万人だった。1世紀後、同様の通商条約が英国、オランダ、ドイツ、スペイン、日本、フランスとのあいだにも結ばれ、フランス国王ルイ14世はこの地域に領土的野心を抱き、アユタヤから下流にドンブリという都市を築いた。この川向かいにあったのが中国商人の居留都市で、その名はバンコクといった。(「野生のスモモの村」という意味)。 1767年、ビルマ軍がアユタヤを攻略し、国王は処刑され、1万人の住人が殺害された。生存者のなかにタクシン将軍がいたが、将軍は地方領主を組織して軍隊を作り、わずか5人の部下と共にビルマ軍の戦線突破に成功し、ドンブリにたどり着き、そこでレジスタンスの基地を作った。この地でタクシンは34歳にして国王を名乗ったが、彼の部下の1人がトン・デュアンで、軍司令官、シャム語で"チャクリ"に就任し、チャクリ朝の創始者となった。タクシンはやがて発狂し、48歳のとき棍棒で殴り殺され、代わりにチャクリが王座に就き、首都をバンコクに移し、アユタヤ朝の最初の王がラーマ大王であったことから、チャクリはこの称号を受け継ぎラーマ1世として歴史に名を残した。 1782年から1809年まで統治した王の目標は、バンコクを第2のアユタヤとすることで、その最初の事業のひとつが、大王宮の建設、この建物は1マイル四方の広さに及び、外宮には裁判所、大臣の役所や大蔵省、衛兵や砲兵の連隊、馬や象の厩舎、美術工房、学校などが置かれ、内宮は王の私的な住まい、花の庭園、王妃たちや王の子供達の住居、侍女やその他の職務を担う女性たちが配置されていた。宮殿の警護を担当する護衛兵は、伝統として女性だった。 シャムの国王は特別な参議官会議で選ばれ、その責務は王座にもっともふさわしい人間を任命すること。現実には王の前でひれ伏すという風習はその人物の家系に関係してということでもまったくなければ、また義務とみなきれていたわけでもなく、むしろ、王と共にいることの栄誉を表現するしぐさであった。王選出の参議官会議の導きでラ−マ1世の子ラーマ2世は1890年に王座につき、引き続きバンコク建築に専念し、彼は38人の妻を持ち、63人の子をもうけ、そのうち38人が男子だった。その一人が皇太子のモンクトであった。
国王ラーマ4世となったモンクトは、シャムの近代化を推し進め、1855年、英国と正式の通商条約を結び、さらにアメリカ合衆国やフランスとも国交を持った。彼の要望に応じてアメリカ人はシャムに印刷機を持ち込み、シャム語のアルファベットで新聞や書籍を出版し、シャムに赴任したカトリックの司教が王にラテン語を教え、アメリカの伝道師たちからは英語を学んだ。王は英語を習得すると、今度はヨーロッパ人の顧問官を雇い始め、そのうちの1人が、子供たちや妻妾にも教育を受けさせたいと願った王の望みで雇われたアンナ・レオノウエンスであった。彼女はシンガポールで学校を成功させており、それが王の関心をひいたのである。
アンナはその5年間にわたる体験を2冊の本にまとめ、彼女の物語がのちにマーガレット・ランドンの手で20世紀の西洋人むけに書き改められ、それが映画に、そしてミュージカル『王様と私』となったのである。 残念ながら、タイの政府も人々も総じてアンナの語る物語には否定的で、とりわけミュージカルには反発が強い。彼らの視点からすれば、この国の歴史が軽薄な娯楽を目的にひどくねじ曲げられたと見え、モンクト王の描き方について、またミュージカルでは王がアンナのやって来る以前から西洋の技術や文化のさまざまな面を導入していたことをきちっと描いていないことには、公式の批判がよせられた。アンナは自分の重要性を過度に強調し、また実際には決して起こったことのない事件をかなり創作したとみなされており、また彼女がモンクト王へ影響を与えたという話はほとんど伝説だとして無視されている。こうした感情はひろく一般にも行き渡り、映画版はこの国では上映禁止になっている。 現実の歴史的展開をなんの創作の自由もなしにミュージカルに仕立てあげることには、明らかに無理があるのは理解されるが、しかし『王様と私』が、アンナの語った物語の基本線を押さえながら、少なくともシャムの文化に何百万もの人々の関心を引き付けたことは確かで、その伝説や創作の側面は、シャムの歴史上の事実ではないとして退けるよりは、その娯楽のうえでの効果をある程度認めるべきもの。実際の史実では、モンクト王はその死の直前までまったくの健康を謳歌しており、アンナ・レオノウエンスがシャムを離れたあと、天文学者が皆既日蝕の正確な日時を算出し、王はシンガポールのフランス公使を招き、自らの宮廷も引き連れて、完全な日蝕を観測できる沼地へと行った。ところがこの沼沢地帯では蚊が大量発生しており、王はマラリアに感染してし、ラーマ4世は1868年に崩御した。 ラーマ4世の息子チュレランハンは父の死後王に任命され、1873年から1910年まで在位し、国王ラーマ5世として彼は奴隷制を廃止し、父の遺業を引き継いで、シャムに近代的な郵便制度を導入、鉄道の建設、さらに行政制度を改革した。その後継者、ラーマ6世(在位期間は1910年から1925年)は伝統的なタイ文化を大幅に復興させ、1925年にラーマ7世が国王に選ばれたあと、絶対王制は廃止された。北ベトナムからの共産主義の影響がラーマ8世(在位1935−1946)の統治を脅かしたあと、アメリカ合衆国が公式にこの国家の支援に乗り出し、ラーマ9世の統治下で、シャムは正式にタイとなり、英国とおなじような立憲君主制を敷いたのである。 製作経緯について ![]() このミュージカル・プレイの原作は、1944年に出版されたマーガレット・ランドンの小説『アンナとシャム王』(Anna And The King Of Siam)を読んでミュージカルにしたらと最初に薦めたのは何とロジャース夫人、ハマーステイン夫人のふたりだったという微笑ましいエピソードがあるが、その時は、気乗りがせずそのままになってしまい、それから2年後、20世紀フォックスがアイリーン・ダン、レックス・ハリスン、リンダ・ダーネルというキャストによって映画化し評判になった。 その時、映画『アンナとシャム王』を見たブロードウェイの大スター、ガートルード・ローレンスがこの映画に感動し、これをミュージカルにしてアイリーン・タンの扮した主人公アンナを是非ともやってみたいと熱心に働きかけたのであった。 ガートルード・ローレンスは1901年ロンドン生まれ、子供の時から舞台に立ちイギリス有数のミュージカル・タレントとして、ノエル・カワードの相手役(「私生活」1930その他)で活躍、ブロードウェイ・ミュージカルの主役も幾度かつとめた大スターだが、人を通じてとうとうロジャース、ハマーステインを口説き落とし、『アンナとシャム王』のミュージカルが実現することになった。
ふたりがこのミュージカル化を渋っていたのは、19世紀中葉の王宮、それも東洋の未開国シャムの王宮を舞台としたもので、アメリカ人はひとりも登場しないことや、主人公の間に恋愛感情が起こらないとかいった点からであり、その上ロジャースは本物の東洋音楽をきいたこともないということも理由であった。
そこでふたりは執筆に先立ち東南アジアに資料集めの旅行をしたり、実際にはシャムないし東洋音楽のスケールや楽器を基に作曲されなかったにも拘らず、ハマーステインのすぐれた台本と歌詞、油ののったロジャースの美しくあるいはしゃれた音楽、そしてこの作品に、最初から打ち込んでいたガートルード・ローレンス、更にはシャム王を演じて一躍ブロードウェイの話題をきらった当時新人のユル・プリンナー、という顔ぶれによって、またまたR&Hコンビの傑作が生み出された。 初演は1951年3月29日、ニューヨークのセント・ジェイムズ劇場で開幕し、1954年初夏までは1246回のロング・ラン記録を打ち立てた。 絢爛たるジョー・ミールツイナーの装置、アイリーン・シャラフの衣裳も評判となったが、主役のローレンスが開演1年目に病に倒れ、1952年9月6日既にこの世を去り彼女の遺言によってコンスタンス・カーペンターがその役を継いだのであった。もうひとり演出のジョン・ヴァン・ドルーテンも上演中に他界するというふたつの悲劇が起こった。映画での主人公アンナ役はデポラ・カーが起用され、歌はオペラ出身のメゾ・ソプラノ、マーニ・ニクソンによって吹きかえられている。 ![]() 20世紀フォックスは、1954年に『王様と私』の映画化権を獲得し、シネマスコープ55でのミュージカル大作として製作を開始した。映画化にあたって舞台版から3曲のミュージカル・ナンバーが削られて「Getting to Know You」、「アンクル・トマスの小屋」、「シャル・ウィ・ダンス?」など10曲が使用された。特筆すべきは「アンクル・トムの小屋」を翻案したシャムの舞踊劇「アンクル・トマスの小屋」のバレエはジュローム・ロビンスの振り付けによるもので、ニューヨークで活躍中の日本人舞踊家ユリコ、イセリ・ミチコ、石井カンナらの助言と協力によって、歌舞伎の踊りの約束事や、所作、小道具(蜘蛛の巣や布の河など)を巧みに生かしたほとんど日本調といっていいバレエである。 この映画はフィルム幅が55mmで撮影され、従来の35mm方式はクローズアップの時に歪(収差)や解像力などの画質の問題があって開発された55mm方式は、より鮮明な映像が得られている。 製作費に560万ドルを投じ、批評家と観客の両方から絶大な支持を受けて大ヒットを記録した。 1956年アカデミー賞は、主演男優賞(ユル・ブリンナー)、カラー美術(ライル・R・ウィーラー、ジョン・デキューア)・装置(ウォルター・M・スコット、ポール・S・フォックス)、録音賞(カール・フォークナー)、ミュージカル映画音楽賞(アルフレッド・ニューマン、ケン・ダービー)、カラー衣裳デザイン賞(アイリーン・シャラフ)の5部門で受賞した。3度ノミネートされたデボラ・カーは残念ながら受賞出来なかったが1993年にアカデミーより名誉賞が贈られた。 (アメリカ映画 20世紀フォックス作品 color cinemascope55(1*2.55)133 min.) "The King and I" Traler
アンナは上陸するとすぐ王様に謁見を申込むが、ふと王宮の廊下で美しいひとりの娘の悲しげな姿を目にとめる。
アンナは、まず丸ぼうず上半身裸身の国王に驚き、王様もアンナの毅然とした態度にたじろぎながら第一王妃ティアン(テリー・サンダース)を紹介する。 教養もあり英語も話すティアン王妃から王妃が大勢いることをきき、アンナはあきれるが、その夜、悲しげな奴隷女タブティムにやさしい言葉をかけると、彼女をこの国に連れてきた使者ルン・ター(カルロス・リサァス)こそ相愛の恋人とこたえるので、同情の気持とともに王様への憎しみを感じる。 翌日、王様は大勢いる王子王女たちにアンナを先生として正式に紹介し、次々にアンナの前に進み出て膝まずき合掌の挨拶をしては引き下がる王子王女たちの可愛らしい表情、それを誇らしげに側で領いている王様の微笑をみているうちに、アンナの王様への敵意が薄らいでいく。 王様は、アンナがどうやら王子たちを気に入って王宮に留ることを知り内心喜ぶが、欧米の事情や新しい科学の研究にも余念なく、ただそれが真実かどうか、どうして人民にそれを伝えたらいいかとひとり悩む。
勉強熱心な王様は夜中に書物のことで分からなくなると、アンナを呼んで教えを乞うこともあるが、アメリカの南北戦争でリンカーンが苦戦してるという新開記事をみて象を贈ろうといい出して、リンカーン大統領宛の手紙を書かされたりする。 そんなある夜半、王宮に忍びこんだルン・タ一に会ったアンナは、秘かにタブティムを呼び出してふたりを逢わしてやり、月光のさす庭園の片隅で、タブティムとルン・ターは、これが最後になるかもしれない逢う瀬を過ごす。 さて、頑固で独裁的な王様にも愛すべき野人としての一面のあることをアンナは次第に理解してきたが、いつまで経っても王宮の外の宿舎の手筈がなく、何よりもわが子をハーレムのような王宮で育てることが居たたまれなく、王様に改めて強く掛け合うが、聞き入れられないのでアンナは帰国する決心をする。 アンナが去ると知る王子たちは悲しみ、ティアン王妃も改めてアンナに滞留を願う。王様は、シャムをヨーロッパの某国が強権によって保護領にしようとしているというシンガポールからの秘密情報をきいて以来、国家の危機、将来に頭を悩ましているが、相談相手もなく当たりちらしているのだった。
やがてイギリス大使一行を迎える宮廷大夜会の日、アンナは大使の随員として出席したエドワード・ラムゼイ卿に思いがけない再会をする。エドワード卿はアンナの夫トムの友人で、彼女がトムと結婚する前からの求愛者であった。 エドワード卿はアンナを踊りに誘うが、遠い異国シャムの人たちの幸福を願い、この国に強い愛着をもつようになっている今のアンナは、エドワードの求婚を無言のうちに受け流す。 王様はアンナの巧みな誘導で、来賓を丁重にもてなすことができたが、座興として、タブティムが、アンナから贈られた「アンクル・トムの小屋」を翻案したシャムの舞踊劇「アンクル・トマスの小屋」は来賓の喝采を浴び、ナレーターをつとめたタプティムは、踊りが終わって作者の挨拶を求める拍手をよそに姿を消してしまうが、それはかねて示し合わせて車夫に変装したルン・ターの車で王宮を逃れ去ったのであった。 夜会の成功をよろこんだ王様は、アンナに、いつも指からはなれることのないヒスイの指輸を贈り、はじめて素直に感謝の言葉を口にする。今はアンナに対して敬服とあるいはそれ以上の感情を抱くようになっていたが、タブティムの脱走のことをきくと不機嫌になる。男は多くの女によって喜びを与えられるようになっているのだ。女は花で、男は蜜蜂のようなものだ・・・。
そういい張る王様にアンナはイギリス人の習慣や考えを説く。王様の頑固さにカブトを脱いだアンナは、夜会の時踊りたそうだった王様を誘ってタンスのステップをお教え王様もうれしそうにワルツのステップを踏む。アンナが歌い、王様も踊り乍らデュエットするが、その時、宰相が入ってきて、タプティムを捕えたことを告げる。 アンナが必死になって止めるのもきかず、王様は、タブティムを鞭打とうするので、アンナは「陛下は野蛮人です」とはじめて王様を罵る。間もなく、タブティムの口から吐かそうとした恋人ルン・ターが死体となって発見される。これを開いたアンナは、今度こそ本当に帰国する決心をかためる。数日後、船便を待つアンナはティアン王妃の知らせで王様が重い病の床にあることを知り、王宮に駈けつけ、王様と和解するが、言葉にこそ出さないが王様はアンナへの許しと信頼、敬愛をこめてやすらかに日を閉じたのである。アンナを慕うチエラロンコーン皇太子はじめ王子王女たちの顔を見渡してアンナはまたこの国に留まる快心をとりもどす。"これからは、王の前でも平伏してはならない!"と重臣たちに告げるりりしい皇太子であった。(ライナーノートより一部抜粋) "Shall We Dance"
キャスト(役名) デボラ・カー(Deborah Kerr)(Anna Leonowens) ユル・ブリンナー(Yul Brynner)(The King) リタ・モレノ(Rita Moreno)(Tuptim) マーティン・ベンソン(Martin Benson)(Kralahome) テリー・サンダース(Terry Saunders)(Lady Thaing) レックス・トンプソン(Rex Thompson)(Louis Leonowens) カルロス・リヴァス(Carlos Rivas)(Lum Tha) パトリック・アディアート(Patrick Adiarte)(Prinse Chulalongkorn) アラン・モウブレイ(Alan Mowbray) (British Ambassador) ジェフリー・トゥーン(Geoffrey Toone)(Ramsay) ユリコ(Yuriko)(Eliza) ミチコ・イセリ(Michiko Iseri)(Angel in Ballet) スタッフ 監督:ウォルター・ラング (Walter Lang) 製作:チャールズ・ブラケット(Charles Brackett) 原作:マーガレット・ランドン( Margaret Landon) 脚本:アーネスト・リーマン(Ernest Lehman) 作曲:リチャード・ロジャース(Richard Rodgers) 作詞:オスカー・ハマースタイン2世(Oscar Hammerstein II) 音楽監督:アルフレッド・ニューマン(Alfred Newman) 振付:ジェローム・ロビンス(Jerome Robins) 撮影:レオン・シャムロイ(Leon Shamroy) 衣裳デザイン:アイリーン・シャラフ(Irene Sharaff)
マーガレット・ランドン(Margaret Landon) 原作作品
"Margaret Landon" Website
チャールズ・ブラケット(Charles Brackett) 製作作品
"Charles Brackett" Website "The Lost Weekend"(1945)
ウォルター・ラング (Walter Lang) 監督作品
"Walter Lang" Website "There's No Business Like Show Business"(1954)
リタ・モレノ(Rita Moreno)出演作品
"Rita Moreno" Website West Side Story-America |
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国王ラーマ4世となったモンクトは、シャムの近代化を推し進め、1855年、英国と正式の通商条約を結び、さらにアメリカ合衆国やフランスとも国交を持った。彼の要望に応じてアメリカ人はシャムに印刷機を持ち込み、シャム語のアルファベットで新聞や書籍を出版し、シャムに赴任したカトリックの司教が王にラテン語を教え、アメリカの伝道師たちからは英語を学んだ。王は英語を習得すると、今度はヨーロッパ人の顧問官を雇い始め、そのうちの1人が、子供たちや妻妾にも教育を受けさせたいと願った王の望みで雇われたアンナ・レオノウエンスであった。彼女はシンガポールで学校を成功させており、それが王の関心をひいたのである。

ふたりがこのミュージカル化を渋っていたのは、19世紀中葉の王宮、それも東洋の未開国シャムの王宮を舞台としたもので、アメリカ人はひとりも登場しないことや、主人公の間に恋愛感情が起こらないとかいった点からであり、その上ロジャースは本物の東洋音楽をきいたこともないということも理由であった。


デボラ・カー(Deborah Kerr)
デボラ・カーは、1921年9月30日にイギリス・スコットランドに生まれ、サドラーズ・ウェルズ・バレエ団でバレエを学んだ後女優に転身し、ロンドンなどの舞台に立ち、1940年、イギリス映画"Contraband"で映画デビューした。1943年に1人3役を演じた「老兵は死なず」で注目され、1947年、マイケル・パウエルの「黒水仙」で注目されハリウッドに招かれた。
デボラ・カー出演作品
ユル・ブリンナーは、1920年7月11日、スイスとモンゴルの血を引く父親とユダヤ系ロシア人の母親の間にウラジオストックで生まれ、中国やフランスで育ったが、やがて、パリのナイトクラブのミュージシャンやブランコ曲芸師として働いていた。
そのうちに俳優を志すようになり、1941年にアメリカに渡って演技を学び、ラジオやテレビに出演するようになった。ブロードウェイの『王様と私』のシャムの王様役は、あたり役で、1952年にはロジャース&ハマースタインのミュージカルでトニー賞、1956年には映画版に主演してアカデミー主演男優賞を受賞した。シャム王役のイメージが定着しすぎスキンヘッドがトレードマークとなった。また、『十戒』(1957)や『ソロモンとシバの女王』(1959)などの歴史大作などでエキゾチックな魅力を発揮したが、1970年代以降は、カルト的な映画での悪役など演じていた。生前に撮影されたタバコの害を警告するCMが死後に放映され話題となったが、CMは自分が肺ガンになったのは喫煙のせいと告白する内容で、1985年10月10日、肺ガンで亡くなったが65歳であった。