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STATE FAIR (ステート・フェア)(1945) |
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解説&ストーリー
ステート・フェアとは、年に1回、その土地の地場産業の振興をはかる共進会、ならびに住民の親善親睦を目的に行なわれるお祭りのようなもので、人集めのための数々の娯楽が提供される。 アメリカは、18〜19世紀を中心に急速に発展した国であり、国民の多くは移民とその子孫であったのでアメリカ人としてのアイデンティティを認識するチャンスが必要ということもあった。アイオワ州を舞台にした映画『ステート・フェア』も、州および国家の讃歌を忘れてはなく郷土愛にあふれたストーリーが展開される。 映画『ステート・フェア』は3本製作され、最初の作品は1933年にフィル・ストロングの原作をもとに、ヘンリー・キングが映画化し、地方色とユーモアのセンスにあふれた作品として評判が高く、 これをミュージカル映画としたものが本作品で、1962年にホセ・ファーラーが再映画化したものがある。 時は現代、場所はアイオワ、主人公は農業を営むフレイク家の家族ということは、3作の共通点だが、しかし、作品ごとに中心人物は少し変わり、第1作ではブタの品評会に夢中になる父親エイベル、第2作は恋に目覚めた長女のマージィ、第3作では歌が自慢の長男ウェインとなっている。 プレイク家は父親エイベル、母親メリツサ、長男ウェイン、長女マージィの4人で、ウェインはエミリーに、マージィはパットに恋をする、というのも大体が同じ筋立て、キャストの変遷を見てみると下記のようになっている。
この作品は、アメリカン・テイストやスピリットに溢れたミュージカル化で、オスカー・ハマースタインU&リチャード・ロジャースが初めて映画のために歌を書きおろした記念作品であり、また、20世紀フォックスが売り出し中のスター、ジーン・クレイン、それに実力、人気ともにフランク・シナトラと双璧の歌手ディック・ヘイムズが共演している。
3作ともこの映画は20世紀フォックスが製作したが、ダリル・F・ザナックは、ブロードウェイの舞台で『オクラホマ!』を大ヒットさせたロジャース&ハマースタインに歌作りを直接に依頼した。そして主演にジーンが起用されたのは、本作品製作の前年『勝利の園』('44)で彼女の力量が認められたためで、その後にも『哀愁の湖』('45)、『三人の妻への手紙』('49)、『ピンキー』('49)、『紳士はブルーネット娘と結婚する』('55)などに出演した。
しかも『ステート・フェア』は、美人コンテストに優勝したこともある彼女が19歳の時の作品で、その美しさは輝いており、また、原作がシンプルで、6つのミュージカル・ナンバーが、巧みにリピートされ、たえず美しいメロディが流れる素晴らしい効果をあげている。 さらに、明るく、ユーモアのセンスにあふれているという点で『ステート・フェア』は、ウォルター・ランク監督の持ち味が生かされた作品といえる。人工美を極めた感のあるMGMミュージカルに対し、20世紀フォックスのは、ごく自然な感じのするミュージカル映画で、この映画の成功によって、ランクは後にロジャース&ハマースタインUの『王様と私』、アーヴィンク・バーリンの『ショウほど素敵な商売はない』を撮り、フランク・シナトラが主演したコール・ポーターのミュージカル『カンカン』も撮っている。 舞台となったアイオワ州の北はミネソタ州、その北の先はカナタで西側はサウス・タコタ、ネブラスカ州に接し、南はミズーリ州で、ニューオーリンズから北上してきた大河、ミシシッピ川によって、東側のイリノイ州と区切られ州都はデモインで、1846年12月28日に29番目の州となった。 そのニックネームはホークアイ(タカの目)・ステート、州が掲げるモットーは"Our Liberties We Prize, and Our Rights We Will Maintain" 「自由を尊び、その権利を守る」というもので、ワイルド・ローズ、ごしきヒワ(イースタン・コールドフィンチ)、樫(オーク)等が州のシンボルとなっており、州歌は「ザ・ソング・オブ・アイオワ」である。 ![]() 先祖であるインディアンはオマハ、ポウニー、アイオウ族が住んでいたが、19世紀からはドイツ、北欧、イギリス、オランダから多くの移民が住みついた。広さは約14万キロ平米で、北海道の2倍、その8割以上が耕地という農業の州、牛と豚(大きいフォッグと呼ばれる)「映画に出てくるブルー・ボーイ」の最大の産地となっている。 執筆活動は東部のニューヨーク、コネチカット、それにフィラデルフィアであったが、撮影は全部がカリフォルニアで行なわれた。この映画で最大のヒットは主題歌の"It Might As Well Be Spring"で、見事にアカデミー賞最優秀主題歌賞を受賞したが、ロジャース&ハマースタインの歌作りの美しさと、歌うジーンの魅力が相乗効果を発揮し、しかもこの歌は、最初はメランコリーな気分の彼女の心を反映し、やがてパットと知り合い素晴らしいラヴ・ソングへと大変身していく。 リチャード・ロジャース(1902〜79)は、1920年代に入るとブロードウェイの舞台を中心に、作曲家として活躍している。当初はロレンツ・ハート(作詞家1895〜1943)とのコンビで売り出し、映画は短編ながら1929年の『メロディの創り手たち』 (Makers of Melody)で、彼らのヒット「マンハッタン」を紹介したのが最初の出会いとなった。 ![]() それ以来、彼らと映画とのつき合いは数多いが、ほとんどの作品にロジャースは満足していなかった。1943年に初めてオスカー・ハマースタインU(作詞家1895〜1960)とコンビを組み、『オクラホマ!』で絶賛を博していた頃に、『ステート・フェア』のミュージカル版の映画の話が持ち込まれた。ザナックの熱意に押されてOKしたものの、ロジャース&ハマースタインが映画のために書きおろしたのは、これが最初にして最後のことである。 結果的には、アメリカを代表するミュージカルの作家コンビ、ロジャース&ハマースタインUにとっては唯一の、しかし大変に出来のいい書きおろしのミュージカル映画となった。 これは彼らのヒット作『オクラホマ!』から『回転木馬』、『王様と私』、『南太平洋』、『サウンド・オブ・ミュージック』などを豪華キャストで映画化したのとは根本的に相違し、あくまでも映画のためのミュジーカルである。映画ではライブと違って歌手は他人の場合も多く、この映画では、ジーン・クレインの歌は、ルーアン・ホーガンが受け持ったが、1946年の『100年目の夏』(Centennial Summur)(ソフト未発売)でも、ジーン・クレインの歌を吹き替えている。 吹き替えで有名なのは、マーニ・ニクソンが知られるが『王様と私』のデボラ・カー、『マイ・フェアー・レディ』のオードリー・ヘップバーン、『ジプシー』のナタリー・ウッドなどを彼女が吹き替えている。 また、リタ・ヘイワースが『ギルダ』で歌った「プット・ザ・プレイム・エリス」はアニタ・エリスが、『脱出』のホーギー・カーマイケルのピアノで歌うローレン・バコールの歌声は、10代のアンディ・ウィリアムスが吹き替えたというから驚く。 1954年度アカデミー賞は、歌曲賞「春の如く」(It Might as Well Be Spring)受賞。 (アメリカ映画 1945年 20世紀フォックス作品 Color 101 min.) State Fair State Fair2 State Fair3 State Fair4 State Fair5 State Fair6 State Fair7 State Fair8 State Fair9 State Fair10
妻のメリツサ(フェイ・ベインター)も同じく出品するミンスミートを作りながら歌っているが、娘のマージィ(ジーン・クレイン)は、以前は好きだったのに、なんだかいやになってしまった・・・、私は今まで手にしなかったものが、何だか無性に欲しくなったと、こうして楽しげに振る舞っていても、気分が落ち込んで、憂鬱な気分ながら何かステキな事に出会いたいと思いにふけている・・・。
風に揺れる柳のように心が揺れる操り人形みたいに頼りない春の"スプリング・フィーバーというものか、でも今は、心を悩ます春ではないと「春ではない」「春ではない」と否定しながら、「でも春のように」と心をときめかし、どこか他の土地に行ってみたい、見知らぬ街を歩いてみたい、今までに耳にしたことのない言葉を、知らない人が話す言葉を聞きたいの、夢を織る蜘味のように私は忙しい、ブランコに乗った子供のようにはしゃぎまくる、春を告げるクロッカスもバラのつばみも見ていないし飛び回るコマドリも見ないけど、メランコリーな気持ちは妙に明るいの、まったく春になったみたいだとマージィが歌う。 ![]() やがて、共進会場へ家族揃って出掛け、そこでマージイーは新聞記者のパット・ギルバード(ダナ・アンドリュース)に出会うが、彼は都会ずれがしている皮肉屋だがマージィは好意をよせ、彼もまた純情な彼女に惹き付けられ、歌が得意の息子のウェイン(ディック・ヘイムス)も歌手のエミリー・エドワーズ(ヴィヴィアン・ブレイン)と知り合いとなる。 共進会ではブルー・ボーイは見事に一等の栄冠を獲得、メリッサの出品したミンスミートも優等賞に輝いた。だが、パットが急に姿をくらましてしまって、エミリーは結婚しているという、マージィもウェインも失望してしまう。どうやら賭はデーヴの勝ちになりそうであったが、電話が鳴る・・・。 パットはシカゴの新聞社に採用されるために電報で呼ばれたためであったが、彼は、マージィの住む町にやって来て、彼女にプロポーズをするのである。ウェインは純真なエリナー(ジェーン・ナイ)を連れてフレイク家へ帰って来る・・・。
Shirley Jones singing "It Might as Well be Spring" from State Fair as a guest star on "The Danny Thomas Show."
キャスト(役名) ジーン・クレイン(Jeanne Crain)(Margy Frake) ダナ・アンドリュース(Dana Andrews)(Pat Gilbert) ディック・ヘイムス(Dick Haymes)(Wayne Frake) ビビアン・ブレイン(Vivian Blaine)(Emilly Eswards) チャールズ・ウィニンジャー(Charles Winninger)(Abel Frake) フェイ・ベインター(Fay Bainter)(Melissa Frake) ドナルド・ミーク(Donald Meek)(Hippenstahl) フランク・マクヒュー(Frank McHugh)(McGee) パーシー・キルブライド(Percy Kilbride)(Dave Filler) ジェーン・ナイ(Jane Nigh)(Eleanor) スタッフ 監督:ウォルター・ラング(Walter Lang) 製作:ウィリアム・パールバーグ (William Perlberg) 原作:フィリップ・ストロング(Philip Strong) 脚本:オスカー・ハマースタイン2世(Oscar Hammerstein II)、ソニア・レヴィーン(Sonya Levien)、ポール・グリーン(Paul Green) 音楽:リチャード・ロジャース(Richard Rodgers) 作詞:オスカー・ハマースタイン2世(Oscar Hammerstein II) 音楽監督:アルフレッド・ニューマン(Alfred Newman)、チャールズ・ヘンダーソン(Charles Henderson) 撮影:レオン・シャムロイ(Leon Shamroy)
"William Perlberg" Website Miracle On 34th Street Trailer(1947)
"Walter Lang" Website Cheaper by the DozenTrailer(1950)
"Dick Haymes" Website Speak Low en One Touch of Venus(1948)
"Vivian Blaine" Website
"Charles Winninger" Website Showboat (1936) |
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ウェイン……@ノーマン・フォスター
3作ともこの映画は20世紀フォックスが製作したが、ダリル・F・ザナックは、ブロードウェイの舞台で『オクラホマ!』を大ヒットさせたロジャース&ハマースタインに歌作りを直接に依頼した。そして主演にジーンが起用されたのは、本作品製作の前年『勝利の園』('44)で彼女の力量が認められたためで、その後にも『哀愁の湖』('45)、『三人の妻への手紙』('49)、『ピンキー』('49)、『紳士はブルーネット娘と結婚する』('55)などに出演した。


妻のメリツサ(フェイ・ベインター)も同じく出品するミンスミートを作りながら歌っているが、娘のマージィ(ジーン・クレイン)は、以前は好きだったのに、なんだかいやになってしまった・・・、私は今まで手にしなかったものが、何だか無性に欲しくなったと、こうして楽しげに振る舞っていても、気分が落ち込んで、憂鬱な気分ながら何かステキな事に出会いたいと思いにふけている・・・。

ジーン・クレイン(Jeanne Crain)
ジーン・クレインは、1925年5月25日、カリフォルニア州バーストウで生まれ、その後ロサンゼルスに移り、アイス・スケーターで一躍注目を集めた。更にルイジアナのパン・パシフィック(LA's Pan Pacific)にミス輝き、高校でオーソン・ウェルズのスクリーン・テストを受け、18歳の時に端役でギャング映画(The Gang's All Here)に出演した。
ジーン・クレイン出演作品
ダナ・アンドリュースは、1909年1月1日、ミシシッピ州コリンズに生まれた。ヒューストンの大学でビジネスを学び経理の仕事に就いたが、歌手になるためにロサンゼルスに移住し、さまざまな仕事をしながらパサデナ・プレイハウスで演技を学んだ。やがて、31歳の時、ウィリアム・ワイラーの『西部の男』(1940年)に出演するチャンスを掴み、その後、タバコ・ロード(1941)、スワンプ・ウォーター(1941)、ローラ殺人事件(1944)、ステート・フェア(1945)や我等の生涯の最良の年(1946)等々に出演し幅広いジャンルで活躍した。1992年12月19日、83歳で永眠。